周囲を海に囲まれた我が国ニッポンは紛れもなく海釣り天国、多種多様な魚がねらえるが、同じ魚種をねらうにしても、さらに同じ釣りジャンルといえど、地方によって独特のカラーがあるのが、何より古くからニッポン人が釣りに親しんできた証拠。
「あの釣りこの釣り古今東西」第8回はかつての大阪湾岸を中心に関西圏で盛んだった独特のチヌ(クロダイ)釣りについて。
「備中釣り」という神戸港の伝統釣法
「茅渟(ちぬ)の海」すなわち「大阪湾」に多くいる魚だから関西ではクロダイを「チヌ」と呼ぶようになったと聞く。そんな大阪湾でかつて盛んに行われたチヌの釣り方がいくつかある。そのひとつが昭和の時代に兵庫県の神戸港、なかでも和田防波堤(神戸港第一防波堤、略して和田防)にマニアが集結していた「備中(びっちゅう)釣り」と呼ばれる日中の釣り方だ。
詳しい資料がないので、いつのころかは定かではないが、元々は大阪港の大関門(防波堤先端の出入口付近)に伝わった? 始まった? 釣り方が神戸港に伝播したものと聞いたことがある。その後、大阪港では下火になったが神戸港では長らく、その伝統が受け継がれてきた。
個人的な記憶をたどる限り、昭和時代が終わるころまでは同防波堤で釣りをする人たちの間に「備中釣り保存会」という組織があった。
長竿(食わせ)と短竿(取り込み)の二刀流
釣り方は今でいう「落とし込み釣り」の原型ともいえるもので、エサのアケミ貝(殻付きのままの丸貝で使用)を中層から海底付近まで落とし込んでは誘い上げてチヌに食わせるものだった。これだけみるとほとんど現在の「落とし込み釣り」、沖目をねらう点では「前打ち」と大して変わりないように思えるが、アケミ貝をマキエにも使用したという点では後に和歌山県などの磯で盛んになった「丸貝フカセ」の原型といえなくもない。
道具は独特で7mほど(たぶん)という長いノベ竿を使用し、リールがなかった時代からの釣りなので広範囲を探るために道糸は竿の長さ以上。そんな長い道糸にはトンボと呼ばれる毛糸目印を何個か付けアタリはその目印の変化でとった。
さらに道糸が長い分、そのままでは掛かったチヌを取り込めないので、先端にカギ(フック)を取り付けた短い「掛け竿」を用い、チヌが掛かった長い道糸の途中を引っ掛けてタモに遊動し取り込む二刀流だった。この取り込みにはかなり熟練した技が必要だったと聞く。
そのあと、兵庫県南部を襲った阪神淡路大震災で和田防も被害を受け、海底地形の変化(?)などもあり「備中釣り」は下火に。さらに、数ある神戸港の沖堤群ではいち早く上陸禁止になり和田防での備中釣りの歴史は幕を閉じたが、この伝統釣法がどこかで誰かに継承されていることを願って止まない。
夜の垂直護岸の定番「コスリ釣り」
「備中釣り」は神戸港限定でそれも日中の釣りだったが、かつて大阪湾岸の広範囲で夜間のチヌ釣りの一翼を担っていた釣り方があった。ひとつはいまでもファンがいる「電気ウキ釣り」だが、もうひとつが「コスリ釣り」と呼ばれる釣法。釣り場は沖堤防などの垂直護岸限定だ。シーズンは初夏から秋だ。
3.3~3.6mのチヌ竿に、かつてタイコリールと呼ばれた小型の両軸受けリール。道糸とハリスは通しの1.5~2号。チヌバリ3~4号を結んだ数10cm上にカミツブシの大~大大を打っただけのシンプルな仕掛。エサはアオイソメの1匹掛けやフクロムシ(スゴカイイソメ)など。
岸壁際ギリギリをねらう「護岸の忍者」
この仕掛を岸壁ギリギリ(30cm以内とされた)で水際に付着しているイガイなどの層の下あたりに入れ、時折数10cm誘い上げてアタリがなければ潮の流れに逆らわず1~2歩進んでアタリを待つという釣りの繰り返し。ポイントが近くタナも浅いので極力気配を隠しての釣りが要求された。
ねらうタナは違うかもしれないが現在でいうチニングに近いものがあるように感じる。また堤防上を移動しながらの釣りなのでタモ(ネット)を背負う釣り人の姿もまさにその原型だろう。息を殺し気配を隠して歩く姿は、さながら「護岸の忍者」だった。
コスリ釣りはチヌだけでなくスズキが食ってくることも多かったので大阪湾岸各所で盛んに行われたが現在は……? タチウオファンがびっしり並んだ沖堤の裏側で人知れず好釣果を上げている人がいるかもしれない。