10数年前の若かりし時の話・・・。繁華街のデパート3階にある、建物をつなぐ渡り廊下を歩きながら、ふと何気なく眼下にある人工池を見下ろすと、まるで、アメ細工に閉じ込められたように水草や藻が繁茂し、その透き通った池の中を鮮やかな錦鯉が泳いでいた。いつも何気なく眺めていた風景が、何故かその日は違って見え、何と色鮮やかでクリアーな景色だろうと感激したのだ。私はその日、人生で初めての「偏光サングラス」を、街中でキザにカッコつけて掛けていた。
釣りシーンにおいて、今では必需品とも言える「偏光グラス」。
前側の「レンズ凸面」と背面の「レンズ凹面」の間に挟まれた「偏光膜」により、水面やガラス面から乱反射された光(=反射光)をカットするというもの。反射光はたいていの場合、横方向の波長だそうで、それらをカットすることで、乱反射を気にせず非常に見やすくなるという仕組みだ。
偏光グラスを掛けた瞬間から、その見え方の違いに驚かされるのではないだろうか。水中のストラクチャーから地形変化、ベイトの有無まで、釣るための情報が手に取るように見えてくる。お陰で、様々な釣りの戦略に拍車が掛かり、妄想が膨らんでしまうだけでなく、魚を見つけるや否や、見失うまいと慌ててキャストを繰り返してしまうのである。更に、魚を見つけるべく、まさに眼の色を変えて水中を観察し続けるのだ。
そんなことを続ける内に、今まで見えていなかったモノが見えるようになってきた…。そう「幽霊(ゴースト)」である。ゴーストとは言っても、足が無く寂しげに手を前に垂れる本物では無い。釣りたい気持ちが強過ぎるあまり、そして、水中が手に取るように見えるようになったがために、水中のあらゆるものが「あれ、魚じゃない?」と言った風に、勘違いして見えてしまうのである。
この「心眼」とも言える勘違いは、気持ちが強すぎるあまりではあるが、一方で人間の脳は「見えないものを補う」 「意味づけをする」という機能もあるそうだ。
人がモノを「見る」というのは、当然ながら「眼」の役割によるが、「眼」はカメラのレンズと同等の役割を担っているのみで、実際は「脳」がモノを映像化し、認識させているとの事だ。(眼については色彩の話でたまに出てくるので)少しだけ詳しく説明させて頂くと、人がモノを見たとき、「角膜(カクマク)」や「水晶体(スイショウタイ)」と言ったレンズ部分を通過し、「硝子体(ガラスタイ)」を経て、その後ろにある「網膜(モウマク)」に光が届く。「網膜」はカメラのフィルムに当たる箇所で、ここには「錐体(スイタイ)」と「杆体(カンタイ)」と言う2つの視細胞が存在する。色を知覚する「錐体」と明暗を知覚する「杆体」の働きにより、受け取った光は電気信号に変換され、「視神経」を経由して脳に伝達するのだ。
脳に伝達した視覚情報は、視覚情報の処理を任された「視覚野」に入り、「位置・運動を認識する経路」と「色・形を認識する経路」の2つに分かれ、再度統合されることで、「映像」として始めて認識されるというメカニズムだそうだ。
この様なプロセスで人がモノを「見る」ことが出来るわけだが、単に「光を電気信号に変え映像化する」というだけでなく、複雑な処理を行う中で、「見えないものを補う」「意味づけをする」ということを行っている。
例えば、人の眼は左右2つがあるが、それぞれの眼で見えている角度や距離が異なる。異なる2つの映像を重ね合わせることで、平面として映像を捉えるのでは無く、立体的に物体を捉えることが出来る。また、過去の経験上から、線や点が全て繋がっていなくても、「推測」という形で図形を捉えることも可能。同様に、単なるシンプルな図形を見た際、その形状から奥行きやシチュエーションを想像することも出来るのである。
その一方で、ちょっとしたことが原因で、脳が誤った判断を下し、見えないモノが見えたり、勘違いをすることもある。。釣りをしている中で、柳の葉に似た細長い楕円を見つけると、それが岩や流木であっても魚に見えてしょうがない。釣り人の飽くなき欲求と想像力は、我ながら大したものだと感じる次第である。皆さんは如何だろうか?
それにしても最近は、もっぱら夜の釣りが難しく、フックのアイが見え辛くてしょうがない。見えていたはずの手元が見えなくなって来ている。そう、「老眼」である。「見えないモノが見える」様になったとしても、「見えていたモノが見えなくなる」時がくる。悲しい現実だが、誰にでも平等に訪れる。あなたもいずれ…。
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